西暦1788年イギリス帝国のジョン・ミアーズが率いる2隻の船団は交易のためマカオを出発、フィリピンのミンダナオ島を経由して北アメリカへ向かっていた。日本では江戸時代天明8年、徳川10代将軍「家治」の治世で田沼意次が亡くなった年である。4月9日船員が水平線の彼方に、大きな岩が海中から突き立っているのを発見した。その岩に近ずくにつれ、彼らの驚きはより大きくなっていった。船員たちは何か超自然的な力が、この岩の形を現在の形に突然変えたのだと、強く信じたがっていたと書き記されている。
ミアーズは、この岩をその不思議な形から、「旧約聖書」に書かれた、神の指示に背いたために塩の柱に変えられた人物に見立てて「ロトの妻」と名付けた。これが孀婦岩が記録に残る最初の出来事である。
私が孀婦岩の事を初めて知ったのは、團 伊玖磨氏の紀行文「九つの空」を読んだ時に始まる。その第1章 南海紀行には孀婦岩を訪れたいきさつが興味深く記されていた。氏は1968年7月22日にエアロ・コマンダー機で空からこの岩を訪れている。
その後、團氏は船をチャーターして再び孀婦岩を訪れた。その紀行文は素晴らしく私は、この絶海に立つ岩に強い憧れを抱くようになったのだ。
1975年に創刊された日本版PLAYBOYは、その軟弱なイメージとは逆に内容はルポルタージュや短編小説、紀行文などかなりレベルの高いお金の掛かった雑誌だった。創刊号から1年分を保存しているのだが、半世紀近くたった今でも読み返してみると興味深い記事に出会うことができる。その創刊4号に孀婦岩に初登頂して成功した記事があった。早稲田大学の岳友会に所属する水野氏(22)と田村氏(21)若い二人のパーティーが初登頂に成功したのだ。1972年7月21日の事である。
彼らの前に、挑戦したグループもあったそうだが、船酔いがきつく何気ない場所で岩場から墜ちてリタイアしたケースがあったそうだ。続編をどうぞ。
コメント
お久し振りです。お元気ですか?
同級生の宮崎です。年賀状でブログ知りました。たまに楽しませて貰ってます。パイロットのお仕事の内容は良かったです。知る機会がなかったです。木次線の時間の優雅な電車も乗車したくなりました。私はバケット作りとコーヒーの焙煎を楽しんでいます。
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