大儀と忠節に生きた若き武将 楠木正行

歴史こぼれ話

 戦国の武将で人気のあるのは織田信長を筆頭に、室町幕府の崩壊から徳川幕府の成立までの間の戦国時代に覇権を争った武将たちであろう。あらゆる権謀術数を巡らせて戦を繰り返し天下取りを目指した武将たちの物語は、小説や映画、テレビ等で何度も取り上げられている。その少し前、鎌倉幕府の滅亡から足利尊氏の室町幕府が成立する14世紀半ばに活躍したが、いまでは顧みられることも無くなった楠木正成(くすのきまさしげ)の長男、楠木正行(くすのきまさつら)の胸のすくような戦いぶりをたどってみよう。

 父,楠木正成が兵庫湊川にて討ち死にした後、そのあとを継いだ正行は文武に優れた武将に成長した。南朝側の武将として、いくども室町幕府と戦い、そのたくみな戦略で戦力で圧倒する幕府勢を苦しめたのである。

渡辺橋の戦い

 1347年(天平2年)11月、大阪の渡辺橋(今の天満橋付近)で山名時氏、細川顕氏の率いる幕府の大軍勢と楠正行との間に戦がくりひろげられた。地理に疎い幕府軍は川の北側から大挙して押し寄せ後ろから押され、狭い橋の上から、次々と川に落ちていった。大義名分を持たない兵たちはこの事態に散りじりに逃げ去った。旧暦の11月といえば現在の12月、冷たい川に落ちた幕府の兵たちは、ある者は溺れ、ある者はほうほうの態で川岸に這い上がってきた。何とか岸にたどり着いたものの、討たれるであろうと覚悟していた兵たちが見たものは、冷えた体を暖める焚火であった。

 正行は、配下の兵に命じ川に落ちた敵兵を助け、焚火で暖を取らせ、乾いた衣服を与え、家に戻るよう命じた。助けられた約500名の兵たちは、感激し翌年の四条畷の戦いでは正行のもとにはせ参じ共に戦った者も多かったという。

翌1348年(天平3年)正月5日、正行は大阪の四条畷で幕府方に最後の戦いを挑むことになる。

出陣前に如意輪寺の扉に名を刻む楠木正行

 幕府方6万の兵に対し楠木勢は2千、兵力の差は圧倒的であり討ち死にを覚悟した正行は出陣前に如意輪寺の扉に辞世の句を矢じりで刻むのであった。

 「かえらじとかねておもえば梓弓 なきかずにいる名をぞとどむる」

 数の上では劣勢であったが楠木勢の士気は盛んであった。幾重にも重なる敵陣を突破した正行勢は敵の本陣近く約半町(65m)まで攻め込み敵の大将、高師直を見つけた。「師直ここにあり」と名乗る武将を落馬させ、その首を打ち落とした。「敵将、師直打ち取ったり」と絶叫するが、それは影武者の上山六郎左衛門の首であった。落胆した正行はその首を地面に叩きつけたが、ふと我に返り拾い上げると「汝は敵とはいえ一命をなげうち主を守るは天晴な剛の者かな」と自分の小袖を引きちぎり首を包むと傍らの石の上に丁寧に置いた。

 

                              四条畷の戦い

 

 そして最後の時が迫っていた。このころ50騎ほどになっていた正行勢は、敵の矢の猛攻を受け深手を負った正行はもはや戦い続けることはできなくなっていた。「もはやこれまで正時、父上のもとにまいろうぞ」正行、正時兄弟は敵の手に掛ることなく刺し違えて亡くなった。享年23歳であった。残った兵32名も腹を切って自決した。

 さて足利尊氏の息子で金閣寺を建立した足利義満の父親である室町幕府の2代将軍、足利義詮は敵将であった楠木正行の人柄を深く敬愛していた。「わしが死んだ後は、楠木正行殿の横に葬ってほしいと」と言い残していた。今も京都嵯峨野の宝筐院には、楠木正行と足利義詮の墓が仲良く並んでいる。

楠木正行と足利義詮が仲良く眠る墓

 

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