京都の北東、左京区に鹿ケ谷と呼ばれる一角がある。平安時代の安元3年(1177年)に僧都俊寛が平家打倒の密議を行った別荘があったことで「鹿ケ谷の陰謀」として歴史上に名を残すことになった。その30年後の1207年、気性の激しい後鳥羽上皇を激怒させる事件が、またもや鹿ケ谷で起こった。
当時、法然や親鸞のとなえる「南無阿弥陀仏」と一心に念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ成仏出来るとする念仏宗が、一般衆人のみならず武士や貴族の一部にも広がりつつあった。これを危惧した旧来の仏教勢力である比叡山延暦寺や奈良の興福寺は念仏宗を停止させるよう朝廷に訴えていた。朝廷としてはそれほどの問題としては捉えず、とりあえず様子見としていたところに事件が発生したのである。
後鳥羽上皇に仕えていた女官の中に19才の松虫姫と17才の鈴虫姫の姉妹がいた。二人は容姿端麗で教養も深く上皇からの寵愛を受けていた。しかし虚飾に満ちた御所での生活に馴染めず、いつしか心の安らぎを求めて仏の道に憧れを抱くようになっていった。
1206年(建永元年)後鳥羽上皇が熊野行幸へ出発したおりに姉妹は清水寺に出掛け、法然の説法を聞き、心穏やかに暮らすには念仏を唱え阿弥陀仏にすがる他は無いとの思いを強くした。そしてある夜、二人はひそかに御所を抜け出し「鹿ケ谷の草庵」を目指した。
二人の姫は、法然の弟子の住蓮房と安楽房に想いを打ち明け剃髪出家を願い出る。後々の事を考えた二人の僧は考え直すように説得するが姫たちの決心は変わらず、住蓮房は松虫姫の安楽房は鈴虫姫の髪を落とし出家させてしまった。
年が明けた1月16日に京に戻ってきた上皇は松虫姫と鈴虫姫の二人が居なくなっていることに知って驚く。寵愛していた二人の姫が仏門に入ってしまったことを嘆き悲しみ、いろいろと調べているうちに姫達が内緒で僧侶を御所へ招き入れ淫らな行為があったのではないかと言う市井の噂までも耳に入ってしまった。これらの出来事に激怒した後鳥羽上皇は、住蓮房と安楽房その他2名の僧侶に死罪を言い渡した。
当時、朝廷の命じる死罪は言い渡されるだけで実際には処刑されることは無かったそうだが、この件に関する上皇の怒りはすさまじく住蓮房は近江の国で、安楽房は六条河原において首を刎ねられた。他の2名についての詳しい資料は残っていない。上皇の怒りはこれに留まらず師匠の法然は讃岐(香川県)へ親鸞は越後(新潟県)へ7名の弟子とともに流され、南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われるとする専修念仏は停止するとの院宣がくだされた。
住蓮房と安楽房が専修念仏の道場として草庵を結んだのが始まりとされる鹿ケ谷の住蓮山安楽寺、毎年7月25日には京野菜の一つ「かぼちゃ供養」が行われている。
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