仏御前

歴史こぼれ話

 以前の記事に書いた「白拍子 時代を彩った女達」の中で世の中の無常を悟り、清盛のもとを去った仏御前のその後をたどってみようと思う。なおこの文章は、「仏御前影像略縁起」「里山保全プロジェクト 木滑物語」そして「加能越三州地理志稿」を参考に書いている。

 清盛の子を身ごもっていた仏御前は、尼寺で子を産み育てることを憚り、生まれ故郷の加賀(石川県)の原村へ帰る決心をする。京都から石川へは現在でもかなり厳しい山岳路である。泊まる宿も完備されていない山道を、同行するものもなく、身重の若い女性が旅するのは想像を絶する過酷なものであったに違いない。

                        現在でも厳しい仏御前が歩いた白山街道

 宝永年間(1704~1711)に書かれた「仏御前事蹟記」では、清盛から授けられた木像を持って帰郷したとあることから、清盛から何らかの援助を受けていたのかもしれないし、それが無ければ旅を続けることは出来なかったと考えられる。

 里山保存プロジェクト 木滑(きなめり)物語より  

「福井県勝山市から峠を越え、石川県の旧吉野谷村まで歩き、そこから仏は原町を目指します。しかし、道中の木滑まで来たところで彼女は産気づきました。近くにある石に寄りかかって、うめき声をあげていると、ちょうど通りかかった村のお婆さんが、仏御前の声に気づきました。お産をしている仏御前の周りには蚊がブンブンたかって苦しそう。お婆さんは、近くにある木の枝で蚊を追い払ってやりました。そして、仏御前のは無事、男の子を出産しました。彼女は、蚊を追い払ってくれた事に感謝し、祈ってくれました。実際今でも、周辺では蚊があまりいません。

 その仏御前が寄りかかり、お産をしたといわれる石。それが、木滑神社にある祠の中にある石です。触れると安産のご利益がある、霊験あらたかな石で 仏御前の安産石とよばれています。」

 史実では、仏御前は死産であったが、民話として伝承するためには 安産であったと されたのであろう。

安産石が保存されている木滑神社
仏御前が寄りかかってお産したと伝えられる 安産石

 治承2年(1178)に帰郷した仏御前は,治承4年(1180年)に死去している。21歳の若さだった。

「加能越三州地理志稿」や一部の口承では、仏御前は何者かによって殺害されたとされている。どこからか流れた風説かは判らないが、男たちが若く美しい仏御前を恋い慕ったために、村の女達の嫉妬を買って殺されたと言う伝説が残っている。有り得ない話では無い。

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