京都の西を南北に走る西大路通りが八条に差し掛かるところに平清盛が創建した若一(にゃくいち)神社がある。この神社には清盛が手植えしたと伝えられる楠の大木があり、この木を切ると祟りがあると言われており京都市電もこれを避けるため西側に迂回していた。今も西大路通りはここで蛇行している。この辺りは当時風光明媚であったとかで、清盛はこの地に西八条殿を造営した。現在の梅小路公園あたりである。
その当時、京で白拍子として有名であった祇王を見初めた清盛は妹の妓女、母親の刀自とともにこの屋敷に住まわせた。

こうして清盛の寵愛を受けた祇王だが、その幸せは長くは続かなかった。祇王が清盛に仕えて三年経ったある日、16歳になる白拍子の仏御前が清盛の前で舞を披露したいと申し出てきた。「わしには祇王と言う女がいるのに、厚かましい女だ。追い返してしまえ」と怒る清盛に「せめて一舞だけでも見てあげれば」と祇王は仏御前に情けを掛けたのだった。
仏御前の舞を見た清盛は、たちまち仏御前に夢中になった。情けを掛けたばかりに清盛の寵愛を失い妹、母とともに西八条の館を追われるようになった祇王は「萌え出づるも 枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき」と障子に書き残し出ていった。
落ちぶれた祇王に、清盛は仏御前を慰めるために舞を見せてやれとさらに残酷な事を命じた。屈辱にまみれながらも「仏も昔は凡夫なり われらもついには仏なり」と涙をこらえ歌い舞った祇王は、母と妹とともに嵯峨の往生院(現在の祇王寺)で仏門に入った。祇王21歳のことである。

念仏に明け暮れ穏やかな日々を送っていた祇王のもとを、ある日髪を下ろして尼になった仏御前が訪ねてきた。祇王が西八条の館を出る時に障子に書き残した和歌に、人生の無常を悟った仏御前は栄華を振り捨てて仏門に入ったのであった。こうして清盛ゆかりの女たちは念仏三昧の日々を送ることになった。
祇王寺には、祇王、妓女、刀自の墓があるが、仏御前はまつられていない。彼女には祇王寺での心休まる生活も長くは続かなかった。仏御前が祇王寺を訪ねたときにはすでに清盛の子を身ごもっていたのである。尼寺で子を産み育てることを憚り、寺を出て故郷の加賀(石川県)に戻る途中、白山の麓の村で清盛の子を出産するが死産だった。治承2年故郷に帰った仏は治承4年8月8日(1180年9月9日)死去、享年2Ⅰ歳の若さだったと言う。

先日、楓の紅葉に染まる祇王寺を訪ねた。権力者、清盛に翻弄された人生を送った薄幸の女性たちに想いをはせた。その清盛も一族の行く末を案じながら高熱にうなされて世を去ることになる。

化野の露消ゆるときなく 鳥部山の煙立ち去らでのみ 住み果つるならひならば いかにもののあはれもなからん この世はさだめなきこそいみじけれ 兼好
注)化野(あだしの)は嵯峨にあった風葬の地、鳥辺山(とりべやま)は東山にある火葬の地であり今も京都市の斎場がある。
コメント