紫電改 日本海軍最強の戦闘機

飛行機のはなし

 太平洋戦争の初期に活躍した海軍の零式戦闘機(ゼロ戦)は,アクタン島で捕獲された機体が米軍によって徹底的に調べられその弱点を把握された。基本的な飛行性能がすぐれており格闘戦には強かったが、脆弱な防弾性能と急降下時の強度不足、そして搭載していたエンジンが1100馬力でどのように改良しても限界があった。米海軍のグラマンF4Fワイルドキャットとの戦いでほぼ互角、その後継機のグラマンF6Fヘルキャットは2000馬力級のエンジンを搭載、ずんぐりした機体に似合わない優れた飛行性能と強力な武装そして素直な操縦性で、経験の少ないパイロットにも扱いやすい機体であり、もはやゼロ戦が対抗できる相手ではなかった。

グラマンF6Fヘルキャット

 ゼロ戦の後継機を早急に制作する必要性を強く感じていた軍部は、三菱に(烈風)という局地戦闘機の制作を命じた。日本は1944年のマリアナ海の海戦に敗れ航空母艦を中心とした連合艦隊は壊滅しており艦上戦闘機は必要なかった。烈風の試作機は試験飛行で良好な成績を残したが、米軍の爆撃により工場を破壊された三菱には烈風を量産する体力は残っていなかった。

局地戦闘機 三菱 烈風

ゼロ戦の後継機を渇望していた海軍は、大馬力エンジンを搭載した川西航空機の水上戦闘機(強風)に目をつけ、この機体を改造して局地戦闘機を製造するよう川西航空機に命じた。

強風から紫電そして紫電改へ

 強風のフロートを取り外し、中翼の紫電を低翼に改造、2000馬力級のエンジンを搭載した紫電改は、設計開始から10ヶ月という短期間で完成し1944年1月1日から試験飛行を開始した。強力なエンジンと頑丈な機体、防弾と燃料の防漏性能の向上、20㎜機関銃4丁の強力な攻撃力、そして川西航空機の技術陣が開発した自動空戦フラップによる卓越した空戦能力を備えた紫電改を「これならグラマンに勝てる」とパイロット達は絶賛した。

 無骨なスタイルをした紫電改は、米軍機と間違われ友軍期から攻撃を受けたこともあった。そして紫電改が大活躍する日がやってきた。1945年3月19日アメリカ海軍機動部隊は150機の艦上戦闘機を、広島県呉市の軍需施設攻撃に向かわせた。これに対し松山基地からは、343航空隊の経験豊富なパイロットが操縦する54機の紫電改が迎撃に向かった。

  すでにゼロ戦はアメリカ軍艦載機にとっては脅威の存在ではなかった。ゼロ戦だと見くびっていたパイロット達は、見たこともない新型戦闘機の高性能と20㎜機関銃4丁の攻撃力に驚き狼狽した。2時間に及ぶ戦闘でF4Uコルセア、F6Fヘルキャット48機、SB2C艦上爆撃機4機が撃墜された。味方の損害は自爆・未帰還16機、地上炎上5機であった。

343空の紫電改

  このように大戦末期に活躍した紫電改も総生産機数は僅か450機あまりであった。

タイトルとURLをコピーしました