国産のYS11と言う旅客機に乗ったことのある人は、今では少なくなったと思うが、私が副操縦士として初めて乗務したのはこのYS11だった。当時(1975年頃)大阪のYS乗員部は伊丹から長崎、北九州、鳥取、仙台、高松、高知、高知経由宮崎、長崎経由鹿児島、奄美、那覇の長距離路線、そして福岡から壱岐、対馬、長崎からは福江の離島路線などバラエティに富んだ路線を担当いた。
駆け出しのプロパイロットとしてお客様を乗せ、スチュワーデス(この頃はまだCAという言葉はなかった)と一緒に仕事ができたのは独身の私にとって楽しい想い出となっている。
このYS11は私にとっては初めての大型機だった。舵は重く離着陸はかなり難しい機体だったが、機長に操縦の機会を与えてもらい指導を受けながら技量の向上に努めたものである。
YS11は戦後初の国産旅客機と言う事で、旅客機など作った事のない技術者が集まって作った手作り感が満載の飛行機だった。ところがこの飛行機、あのロールスロイス製のエンジンを搭載しているのだがパワーが無く、取扱説明書(飛行機運用規程と言う)では20000フィート(6000メートル)まで上昇できることになっているが、乗客を乗せれば15000フィートがやっと、夏場などは10000フィートを超えるとほとんど上昇できなかった。まるで重いクラウンに非力な軽自動車のエンジンを積んだような代物であった。そしてとにかく舵が重い、人類最大の人力飛行機と言わたれたように、エルロン、エレベーター、ラダーの三舵に油圧が使用されず、すべてワイヤーで繋がれていた。特にエルロンが重かったのが記憶に残っている。駐機しているときなど、後ろから強い風を受けると舵面がうちわのようにバタバタと暴れ操縦桿がガタガタと揺れたものでした。
またAPU(補助動力装置)を装備していなかったのでエンジンがかかるまでは、エアコンが働かず夏は暑く冬は寒い、乗客の皆さんはよく我慢してくれたものだと思つている。 プロペラの騒音も大きいし、窓の位置が低く身をかがめないと外が見えない、トイレはタンク式で臭うと言ったサービス面ではかなりレベルの低い機体だった。
性能的にはイマイチなYS11だったが、頑丈さはピカ一だった。現代のジェット旅客機では乱気流を翼のしなりで吸収する所があるのだが、YS11では翼はしなる事なく機体全体で揺れに耐える感じだった。またかなりのハードランディングでもびくともしなかった。そして製造試験時の水槽を使った胴体の耐圧検査では、機体より先に水槽が壊れてしまったというエピソードも残されている。
どんな飛行機でも3年も乗ると、慣れてきて思うように動かせることができるようになるものだが、 私達は、これを「手に入った」という。この頃から乗っている飛行機に愛着が湧いてくるものだ。私はYS11に5年間の乗務した後、ボーイング737型機に移行するこになる。
さてYS11に乗務していた5年の間に大きなトラブルはなかったのだが一度だけインシデント(大きな事故には至らない事件)に遭遇した事があった。
日時は忘れたが、伊丹空港を離陸するために短い滑走路32Rに向かっていたところ、後続の航空機から「前のYS、右の車輪から煙が出ていますよ」とアドバイスをもらった。何が起こったのか判らず、計器や警告灯をチェックしているうちに、機体は右側にずれはじめブレーキも効かなかった。機体は誘導路をそれて右側の側溝に車輪を落とし停止した。火災の発生を危惧した機長の指示でエンジンを停止して救援を要請した。これは右側の脚柱を通っている油圧ラインに穴が空いて3000psi(もの凄い高圧)でオイルが霧状に噴出して、ブレーキとステアリング(車のハンドル)が効かなくなったためだった。高圧のオイルは漏れると霧や煙のように見えることを知った。私はその後、ボーイング747とエアバスA320でも、油圧系統の故障に見舞われている。