コンベア880 なぜ壱岐空港で事故?

飛行機のはなし

 日本航空のコンベア880の記事を書いていてふと疑問が湧いてきました。壱岐島は福岡の北西の玄界灘に浮かぶ長崎県の島です。私もYS11に乗務している頃はよく飛んだものです。行きの高度は4000フィート(1200m)帰りは3000フィート(900m)、飛行時間は15分から20分の短い路線でした。                  飛行場は島の南東に位置し、滑走路はほぼ南北にのびる02/20で幅30メートル長さ1200メートル、YS11がやっと離着陸できるローカル空港です。

 周りの海はとてもきれいで、夏場に北向きのRW02で離陸するときは、すぐ傍の錦浜や大浜海水浴場に遊びに来ているたくさんの海水浴客が手を振ってくれてリゾート気分を満喫できたものです。ところが冬場になって北西の季節風が強まると、山を越えてくる季節風が乱気流となって、RW02の 最終進入コースは、接地寸前まで激しく揺れて、最も着陸の難しい空港の一つでした。

 1965年2月27日、日本航空の大型ジェット機コンベア880JA8023[KAEDE]が墜落炎上し、脱出の際に乗員6名中2名が重傷を負うという事故が発生しました。しかし、壱岐空港の供用開始は翌年の1966年7月でまだ未完成です。何が起こったのか? その謎は新聞記事でとけました。

 昭和40年2月27日の朝日新聞の夕刊記事に「足らぬ訓練飛行場、コンベア機事故の背景「今度の事故の場合も、板付空港(福岡空港)では、定期便の発着が頻繁なため、まだ未完成の壱岐飛行場で超低空での離着陸訓練をしていたものだが、もし整備された訓練飛行場があったらこの日の事故も防げたかもしれない」とあります。

 事故機の機長は、壱岐署の調べに、「滑走路の北端から超低空飛行に入ったが、ジャリ山に触れるまで車輪が接地していたかどうかわからない。気流が悪く、エアポケットに入ったようにストンと落ちた感じだった」と述べています。

 訓練空港が無かったとはいえ、当時は本当に厳しい状況で訓練をしていたのですね。そういえばボーイング737に乗っていた時も、キャプテンが「明日は、早朝から羽田で実機の6マンス・チェックだ(半年に一度の技能審査)とよく言っていたものです。翌年の1966年には、羽田空港で限定試験中の日本航空のコンベア880が離陸に失敗、墜落炎上、そして1969年には、同じく日本航空の同型機が、アメリカで訓練中に離陸に失敗、墜落炎上する大事故を起こしています。

 2月、まだ工事中で慣れない離島のローカル空港、気象状況も知らされていない中、北西の季節風の吹き荒れるRW20の北からの最終進入、大型ジェット機による超低空,超低速での最終進入、テールウインド(後ろからの風)が強くなれば一瞬にして10ノット(18km/h)や15ノットの速度を失って機体は失速してしまいます。機長の証言を読んでいると、誰も責められない天災のように思えます。

 

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