大阪で万博があった年、大学4年そろそろ就職を考えないといけない時期だった。ゼミの先生が2~3社紹介してくれたのだが、もう一つ興味が湧かなかった。ある日新聞の広告に、大手航空会社の パイロット訓練生募集の記事がでていた。子供の頃から飛行機は好きだったが、パイロットになるにはどうすれば良いのかも知らなかった。まあ、試しに受けてみてダメだったら、先生に紹介してもらった会社に就職しようと、軽い気持ちで受験したところ 学科試験、適性検査、身体検査、面接と何回かの関門を通過して、なんとか無事に自社養成パイロット訓練生として採用される事となった。 当時は、いろいろなコースがあって私は、1年間航空自衛隊で基礎訓練を受けるコースだった。最初の半年は奈良の航空自衛隊幹部候補生学校で、英語と航空級無線通信士の資格を取得する訓練を、残る半年は山口県の防府基地でビーチクラフト社のT-34メンターで初級訓練として、単独飛行が出来るまでの技量と簡単なアクロバット飛行などを練習した。
さて1年間の自衛隊での訓練を終えて、会社に戻り国内で自家用操縦士のライセンスを取得、その後 アメリカのサンディエゴのPSA(サウスウエスト航空)の訓練所で、事業用、双発、計器飛行証明のライセンスを取得、航法訓練としてカリフォルニアやアリゾナのローカル空港を巡るフライトでアメリカの航空界の懐の深さを実感した。管制官のいないローカル飛行場にはボロいセスナに乗ってオジサンが食事に来たり、訓練所のあるブラウンフィールド空港には二人乗りのP51ムスタングの後席にきれいな女性を乗せたエアラインのキャプテンが飛来することもあった。訓練所は二階建ての個室、食事は日本人の料理人が三食作ってくれるレストランがあって無料、訓練所にはプールもあった。給料は日本でそのまま支給され、 それとは別に一日当たり7ドルの手当てが支給されていた。このお小遣いで国境の町、メキシコの ティファナで随分夜遊びをしたものだ。現在の訓練環境と比較すると、本当に恵まれていた。
すべてのベーシック訓練を終えて、日本に帰りYS-11のグランドスクールとリンクトレーナーと言う初期のシミュレーターで操作手順を覚え、再度PSA訓練所でYS-11の実機訓練と限定変更試験を受験し、すべての訓練が終了した時には4年の月日が過ぎていた。
その後、大阪のYS-11乗員部に配属され二か月ほどの路線訓練を終了して、ようやく副操縦士の発令を受け、プロのパイロットの生活がスタートした。
YS-11を始めに、ボーイング737,767,747-400そしてエアバスA320といろいろな飛行機に乗務して国内の超ローカル空港から、ロンドン、パリ、ニューヨークと言った国際線に乗務する事もできた。 最後は北九州の航空会社でA320に乗務、その後シミュレーター教官として、若いパイロットの教育で8年間過ごした。今振り返えってみれば日本の航空界が発展した時代に、恵まれた待遇で仕事ができたことを感謝せずにはおれない。
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